魔のワープロ
来月は文芸雑誌「文學海新人賞」の応募締め切りだ。ここ三ヶ月というもの仕事が終わってから毎日のようにワープロに向かっている。寝るのが、夜中の三時、四時なんてのもザラだ。当然のことながら明くる日の仕事はとてもきつい。
僕の職場はアルミ工場だ。ここで給料をもらうことで、僕は日々の暮らしを成立させている。親会社から運ばれてきた型材を、僕たち下請けの人間が切断して加工する。僕は主に切断をしている。
切断機から出る粉塵にまみれながらアルミの型材を切断しているとき、睡魔に襲われ誤って高速で回転するノコ刃に手を挟みそうになったことも一度や二度ではない。夜遅くまで夢を見ながら原稿を書くのも結構だが腕がなくなってしまえば原稿を書くどころではない。日常生活にも支障を来してしまう。
何の特殊技能も持たない僕が腕を失くせば、ありつける仕事などどこにもないだろう。せいぜい生活保護を受けるのが関の山だ。
この仕事は肉体労働なので冬でも汗だくになる。ハンカチを取り出そうとして、ポケットに手を突っ込むとポケットからもアルミの粉がこぼれ落ちる。
なんとか、今日も僕は切断機から出る粉塵を頭からかぶりながら一日の仕事を終えた。
帰宅して夕飯を食べると、すぐにワープロに向かう。本当は大作家みたいに万年筆で手書きの原稿にしたいのだが、僕は字が汚い。自分で書いた文字でも後で読みかえすと判読不明のものがしょっちゅうある。
そんなわけで最初のころは手書きだったのだが、今ではワープロを使っている。武士通の「DX-7」という機種だ。電気屋に行って驚いたのはワープロ専用機でも高いものになるとパソコンが買えるくらいの値段がすることだ。
当然、僕はそんな高いものは買えないから、一番安いものを選んだ。カラー印刷も何もなし。三万円ちょっとのやつ。本当に文章を書くためだけの機種だ。今から半年くらい前のことだろうか。
DX(デラックス)とは名ばかりのこの機種は四百字詰換算で七十枚も書くと容量が一杯になり、いちいちフロッピーに移しかえなくてはならない。おまけに印刷も七十枚程度で五時間ほどかかる。長編を印刷しようとしたら冗談ではなく二日ほどかかる。時間だけではなくワープロリボンだってもの凄く食う。だいたい三十枚で一本は使っている。
安物買いの銭失い、とはこのことだ。まあ、これも致仕方ないだろう。でも、僕には夢も希望もある。
応募締切りが来月に迫った文學海新人賞をとりあえず取るのだ。今までに応募した賞はことごとく一次予選で落とされていた。だが、前回の文學海新人賞で僕はかなりの手応えを感じた。僕の書いたものが太字になって頭にマルがついたのだ。つまり、最終選考に残ったのだ。
別に担当の編集者がついたわけではないが、あと一歩だと自分では思っている。
文學海新人賞を取ったら賞金の五十万円でまず、真っ先にパソコンとプリンターを買おう。ついでにプロのライターが使うようなエディターのソフトも入れよう。
そんな甘い青写真をもってここしばらく「変換」「印刷」すべてがのろいワープロに向かって原稿を書いているのだが、一向に筆が進まない。
「弘法筆を選ばず」というが、あれはきっと嘘だ。プロ並の設備さえあれば僕にも絶対書けるはず。僕は自分の才能のなさを道具のせいにしていた。
北方謙三だって若いときは書けないのを万年筆のせいにしたっていうじゃないか。僕がワープロのせいにしているのは決して不条理なことだとは思わない。
しかし、このままの調子では応募締め切りに間にあいそうにない。新人賞はおろかパソコンも夢のまた夢で終わりそうだ。
「あーあ、パソコンが欲しいな」
僕は原稿を書いていた手を休め、一服つけると独りごちた。
時計の針は深夜三時を指していた。
気がつくと机にうつ伏せになって、いつしか眠りに落ちていた。
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僕の職場はアルミ工場だ。ここで給料をもらうことで、僕は日々の暮らしを成立させている。親会社から運ばれてきた型材を、僕たち下請けの人間が切断して加工する。僕は主に切断をしている。
切断機から出る粉塵にまみれながらアルミの型材を切断しているとき、睡魔に襲われ誤って高速で回転するノコ刃に手を挟みそうになったことも一度や二度ではない。夜遅くまで夢を見ながら原稿を書くのも結構だが腕がなくなってしまえば原稿を書くどころではない。日常生活にも支障を来してしまう。
何の特殊技能も持たない僕が腕を失くせば、ありつける仕事などどこにもないだろう。せいぜい生活保護を受けるのが関の山だ。
この仕事は肉体労働なので冬でも汗だくになる。ハンカチを取り出そうとして、ポケットに手を突っ込むとポケットからもアルミの粉がこぼれ落ちる。
なんとか、今日も僕は切断機から出る粉塵を頭からかぶりながら一日の仕事を終えた。
帰宅して夕飯を食べると、すぐにワープロに向かう。本当は大作家みたいに万年筆で手書きの原稿にしたいのだが、僕は字が汚い。自分で書いた文字でも後で読みかえすと判読不明のものがしょっちゅうある。
そんなわけで最初のころは手書きだったのだが、今ではワープロを使っている。武士通の「DX-7」という機種だ。電気屋に行って驚いたのはワープロ専用機でも高いものになるとパソコンが買えるくらいの値段がすることだ。
当然、僕はそんな高いものは買えないから、一番安いものを選んだ。カラー印刷も何もなし。三万円ちょっとのやつ。本当に文章を書くためだけの機種だ。今から半年くらい前のことだろうか。
DX(デラックス)とは名ばかりのこの機種は四百字詰換算で七十枚も書くと容量が一杯になり、いちいちフロッピーに移しかえなくてはならない。おまけに印刷も七十枚程度で五時間ほどかかる。長編を印刷しようとしたら冗談ではなく二日ほどかかる。時間だけではなくワープロリボンだってもの凄く食う。だいたい三十枚で一本は使っている。
安物買いの銭失い、とはこのことだ。まあ、これも致仕方ないだろう。でも、僕には夢も希望もある。
応募締切りが来月に迫った文學海新人賞をとりあえず取るのだ。今までに応募した賞はことごとく一次予選で落とされていた。だが、前回の文學海新人賞で僕はかなりの手応えを感じた。僕の書いたものが太字になって頭にマルがついたのだ。つまり、最終選考に残ったのだ。
別に担当の編集者がついたわけではないが、あと一歩だと自分では思っている。
文學海新人賞を取ったら賞金の五十万円でまず、真っ先にパソコンとプリンターを買おう。ついでにプロのライターが使うようなエディターのソフトも入れよう。
そんな甘い青写真をもってここしばらく「変換」「印刷」すべてがのろいワープロに向かって原稿を書いているのだが、一向に筆が進まない。
「弘法筆を選ばず」というが、あれはきっと嘘だ。プロ並の設備さえあれば僕にも絶対書けるはず。僕は自分の才能のなさを道具のせいにしていた。
北方謙三だって若いときは書けないのを万年筆のせいにしたっていうじゃないか。僕がワープロのせいにしているのは決して不条理なことだとは思わない。
しかし、このままの調子では応募締め切りに間にあいそうにない。新人賞はおろかパソコンも夢のまた夢で終わりそうだ。
「あーあ、パソコンが欲しいな」
僕は原稿を書いていた手を休め、一服つけると独りごちた。
時計の針は深夜三時を指していた。
気がつくと机にうつ伏せになって、いつしか眠りに落ちていた。
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パソコン
翌日の休み、買うカネもないくせに僕は電気屋の店頭でパソコンを眺めていた。
『西芝 ダイナモ・ブック\168、000』
『ソミー パイオ \210、000』
『武士通 デスクバワー\188,000』
『MEC パリュウスター\269,800』
『IPM バプティバ\149,000』
『ジャープ ベビウス\139,000』
見ていて思わずため息が出た。
一番、安いものでも十四万ほどする。プリンターや諸々を合わせると十六万はするだろう。どうあがいても僕には手が出ない。
「やはり、文學海新人賞を取るしかないか......」
そんなことを考えながら、しばらくぼんやりとパソコンを眺めていた。
帰ろうかな。そう思った瞬間だった。
「何や、パソコン欲しいんか? エッ」
振り向くと柄の悪そうなオッサンが背後に立っていた。紫のスーツ、首から下げられた金の鎖、鰐皮のベルト、靴は白いビットモカシン、頭にはパンチパーマ。脂ぎった顔には色の薄い、金縁のサングラスをかけている。これ以上はないというほどの悪趣味だった。
関西人丸出しのこのオッサンが店の人間でないことは一瞥してあきらかだった。
「いえ、別に」
僕はあわててその場を立ち去ろうとした。
「待たんかい」
金ムクのロレックスをはめた毛むくじゃらの腕が僕の肩をつかんだ。
ヤクザにからまれるようなことは身に覚えがないはずだが......。僕は心中でつぶやいた。
「パソコン欲しいんやろ。顔にそう書いたあるわ。これで原稿書いたらさぞかしはかが行くやろうなあ。どや、図星やろ」
男はサングラス越しに僕の顔を睨めつけた。爬虫類のような体温を感じさせない眼だった。
僕は内心ドキリとした。なぜ解かったんだ。そんな風に見えるのか。それとも僕のような人間が大勢いて、あのオッサンはその度にこんな風に声をかけているのだろうか。パソコンならインターネットや表計算、いくらでも他に用途があるだろう。僕が小説を書いていることは誰にも言ってない。
「ちょっとこっち来いや」
有無を言わせず男は僕の首筋をつかみ店外へと連れ出そうとした。途中、店の従業員に助けを求めるような視線を送ったのだが、誰も気づかなかった。関わりになりたくないので気づかない振りをしたのかもしれない。思い切って大きな声で助けを呼ぶべきだったのだろうか。だが、恐くてそれどころではなかった。
男は店外の駐車場にとめられた一台の白いワゴン車の前まで来てようやく解放してくれた。
「まあ、見てみ」
後部座席とつながった後ろの荷台のドアを開けると小汚い段ボール箱があった。男は二、三度息を吹きかけ、段ボールの上の埃をはらうと中から薄汚れた機械を取り出した。
「この機械はな、自動ワープロっちゅうねん」
「自動ワープロ? 」
「せや」
「タイトルと枚数だけインプットすれば自動的に原稿ができあがる、いう大変便利な機械や。メジャーな賞が欲しかったら原稿の最後にOO賞希望とでも書いといたらエェ。芥皮賞でも直危賞でも総ナメやで。無論、応募原稿にそこの部分は印刷する必要なんかあれへんけどな」
また、こんな話か。僕は思った。よく駅前で英会話の教材のセールスなんかが同じようなことを言っている。
曰く、
「この教材を使えばどなたでもペラペラに喋れますよ」
などと騙くらかして高額の商品を売りつけるというあれだ。実を言うと僕は美人の勧誘員につられて危うく契約書にサインしそうに
なったことがある。
「なんや、ニイちゃん。信用してへんな。まあエエわ。今日のところはタダでえェ。とりあえず持ってき。お代はそのうちでエェ、出世払いや」
男は機械を再び段ボールにしまった。普通、電化製品を梱包してある段ボールにはメーカー名や機種名が印刷されているものだが、この段ボールには「紀州みかん」と書いてある。
ますます胡散くさかった。だいたい僕が欲しいのはパソコンであってワープロではない。
男は僕の両手に小汚い段ボールを押しつけると、後部座席のドアを閉め、運転席に乗り込んで。エンジンをかけた。
僕は、
「困ります」
と言おうとした。
だが、男はそんな隙すらも僕に与えなかった。
窓から顔をのぞかせて、
「ほなな。そのうちお代はもらいに行くよって」
男は自分の言いたいことだけ言うと狭い駐車場を猛スピードで走り抜けた。僕はその後ろ姿を見送りながら、困惑するだけだった。
仕方なく僕は自転車の荷台にその段ボール箱をくくりつけてサドルに股がった。
ペダルをこぐ足がやたらと重かった。
家に帰った僕は箱から中身を取り出してみた。その機械は今まで僕が仕方なく使ってきたのと同じ機種、DX-7だった。唯一の違いはこっちの方が薄汚れていることくらいか。
「ああ、やっぱり」
これはきっと新手のキャッチセールスか何かだろう。そうすると僕はまんまとあの男にしてやられたことになる。
しかし、あの男は僕の住所や連絡先を知っているのだろうか。僕はあの男には住所はおろか名前だって名乗ってはいない。しかし、僕がパソコンを欲しがっていること、新人賞に応募しようとしていることを知っていた。
「どういうことだろう」
僕は薄汚れたワープロを開けて電源を入れてみた。新規文書作成にカーソルを合わせる。書式設定はいつものように30×40にした。ワープロで一枚書くことによって原稿用紙で三枚を書く計算になる。
湿ったため息をひとつついた後、僕は何気なく、「ジャッカルの青春 百枚」と頭の部分に書いてみた。これは僕が現在書きかけの原稿で冒頭の二十枚くらいで行きづまってしまった作品だ。間に合うならば文學海に応募するつもりでいたものだ。
どこも何も変わらない。ローマ字入力した文字が変換されるのが重いのまで同じだ。
画面には「ジャッカルの青春 百枚」という文字が蒼白く映しだされている。
僕は深い溜め息を吐き出し、ぼんやり画面を眺めた。
それにしても気にかかるのは、
「そのうちお代はもらいに行くよって」
と言ったあの男の言葉だ。おそらく見てくれから察するにまともな職業についている人物ではあるまい。後でどんな難癖をつけてくるかわかったものではない。
「最悪、消費者センターか警察にでも届けようかな」
そんなことをぼんやり考えていた、そのときだった。
キーに触ってもいないのにカーソルが勝手に動きだして文章をつむぎだしているのだ。変換は相変わらず遅いものの着実に文字が画面を埋めていく。
三十分ほどでカーソルの動きがとまった。画面上部の表示は白抜きの文字で「和文 A4 縦書 中明朝 三十四枚目」とある。調べてみると原稿用紙百枚分、三十三枚と十三行だった。ほぼ百枚、きっかりの数字だ。
しかも、この機種では七十枚以上書くときは、一度フロッピーに落とさないと容量が一杯になって、それ以上書けなくなるのだが、そんな様子もない。
僕はあらためて画面を食い入るように眺めた。カーソルを一枚目に移動させ、最初から読み返してみる。
僕が二十枚ほど書いたものとは筋立てがまったく違っていて、圧倒的に面白かった。
特に圧巻だったのはエンディングだ。助手席に自分の女、奈於美を乗せた主人公、健二がフェラーリで高速道路を走っていると対向車線のトラックが横転してきて中央分離帯を突っ切り、衝突する。
道路に投げ出された健二は後続車輌に次々に轢かれる。
やがて敵役の紫のスーツを着た、柄の悪い、関西弁を話す金貸しが現れ、かろうじて息のある健二の脳天めがけて拳銃の引き金をひく。
脳ミソをアスファルトに巻き散らかし、血を吐いて死ぬ場面などは実際に見てきたように書いてある。
「これは凄い。いったい......」
いったいどういうことだろう。目の前にある原稿は構成、描写、文体、一分の隙もないような小説だった。あの男の言ったことは本当だったのか。仮に本当だとするならば僕はこの原稿の一番最後に「OO賞受賞」と書けば、本当に賞が取れるのかもしれない。
あらためて最初から読み返してみる。出来上がった原稿はどちらかといえばエンターテイメント小説であって純文学ではなかった。 さて、どうしよう?
僕はどの賞に応募するべきだろう。この原稿の出来映えならば、どの賞に応募しても受賞は間違いないように思われた。
文學海の賞金は五十万円、それに対してエンターテイメント小説の新人賞である、「小説北斗新人賞」や「小説新腸」の賞金は百万円だ。カネだけでいうならば「小説富士」や「小説新腸」に応募するべきだろう。
だが、小説北斗新人賞や小説新腸の応募締め切りは半年後、発表は更に一年後だ。結果が出るまで合計一年半待たなくてはならない。それに対して文學海新人賞の締め切りは来月、発表は半年後だ。結果は早く出る方が望ましい。
どこに応募するべきだろう?
悩み抜いた末に僕は文學海に応募することにした。
恐る、恐る、(了)と書かれた文章の最後に文學海新人賞、ついでに芥皮賞受賞と書いてみた。
F8(印刷)、全文印刷のキーを押す。リボンを新しいものに交換して用紙をセットした。
間延びした音とともに一枚ずつA4の用紙がフィーダーに吸い込まれていく。
印刷はこの機械もやはり遅かった。原稿用紙換算で百枚印刷するのにリボン交換や何かも含めて六時間くらいかかった。休みの半日がまるまる潰れた計算になる。
印刷が終わるころには陽もとっぷりと暮れかかっていた。印刷が終わった原稿の右肩を黒い紐で綴じ、茶色の封筒に入れた。封をして、
「文學海新人賞御中」
とサインペンで書き終えたとき僕は不思議な手応えを感じた。思えば今までは原稿を印刷し、投函するときの心境というのは宝くじを買うようなものだった。郵便ポストに封筒を入れてから結果が出るまでの間、明日へとつなぐ夢をあがなう、そんな心境だった。
ところが今回は違う。
僕は何かが始まるような気がしてならなかった。封筒の裏に自分の住所、氏名を書き終えると妙な自信とともに床についた。
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『西芝 ダイナモ・ブック\168、000』
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『IPM バプティバ\149,000』
『ジャープ ベビウス\139,000』
見ていて思わずため息が出た。
一番、安いものでも十四万ほどする。プリンターや諸々を合わせると十六万はするだろう。どうあがいても僕には手が出ない。
「やはり、文學海新人賞を取るしかないか......」
そんなことを考えながら、しばらくぼんやりとパソコンを眺めていた。
帰ろうかな。そう思った瞬間だった。
「何や、パソコン欲しいんか? エッ」
振り向くと柄の悪そうなオッサンが背後に立っていた。紫のスーツ、首から下げられた金の鎖、鰐皮のベルト、靴は白いビットモカシン、頭にはパンチパーマ。脂ぎった顔には色の薄い、金縁のサングラスをかけている。これ以上はないというほどの悪趣味だった。
関西人丸出しのこのオッサンが店の人間でないことは一瞥してあきらかだった。
「いえ、別に」
僕はあわててその場を立ち去ろうとした。
「待たんかい」
金ムクのロレックスをはめた毛むくじゃらの腕が僕の肩をつかんだ。
ヤクザにからまれるようなことは身に覚えがないはずだが......。僕は心中でつぶやいた。
「パソコン欲しいんやろ。顔にそう書いたあるわ。これで原稿書いたらさぞかしはかが行くやろうなあ。どや、図星やろ」
男はサングラス越しに僕の顔を睨めつけた。爬虫類のような体温を感じさせない眼だった。
僕は内心ドキリとした。なぜ解かったんだ。そんな風に見えるのか。それとも僕のような人間が大勢いて、あのオッサンはその度にこんな風に声をかけているのだろうか。パソコンならインターネットや表計算、いくらでも他に用途があるだろう。僕が小説を書いていることは誰にも言ってない。
「ちょっとこっち来いや」
有無を言わせず男は僕の首筋をつかみ店外へと連れ出そうとした。途中、店の従業員に助けを求めるような視線を送ったのだが、誰も気づかなかった。関わりになりたくないので気づかない振りをしたのかもしれない。思い切って大きな声で助けを呼ぶべきだったのだろうか。だが、恐くてそれどころではなかった。
男は店外の駐車場にとめられた一台の白いワゴン車の前まで来てようやく解放してくれた。
「まあ、見てみ」
後部座席とつながった後ろの荷台のドアを開けると小汚い段ボール箱があった。男は二、三度息を吹きかけ、段ボールの上の埃をはらうと中から薄汚れた機械を取り出した。
「この機械はな、自動ワープロっちゅうねん」
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曰く、
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なったことがある。
「なんや、ニイちゃん。信用してへんな。まあエエわ。今日のところはタダでえェ。とりあえず持ってき。お代はそのうちでエェ、出世払いや」
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ますます胡散くさかった。だいたい僕が欲しいのはパソコンであってワープロではない。
男は僕の両手に小汚い段ボールを押しつけると、後部座席のドアを閉め、運転席に乗り込んで。エンジンをかけた。
僕は、
「困ります」
と言おうとした。
だが、男はそんな隙すらも僕に与えなかった。
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「ほなな。そのうちお代はもらいに行くよって」
男は自分の言いたいことだけ言うと狭い駐車場を猛スピードで走り抜けた。僕はその後ろ姿を見送りながら、困惑するだけだった。
仕方なく僕は自転車の荷台にその段ボール箱をくくりつけてサドルに股がった。
ペダルをこぐ足がやたらと重かった。
家に帰った僕は箱から中身を取り出してみた。その機械は今まで僕が仕方なく使ってきたのと同じ機種、DX-7だった。唯一の違いはこっちの方が薄汚れていることくらいか。
「ああ、やっぱり」
これはきっと新手のキャッチセールスか何かだろう。そうすると僕はまんまとあの男にしてやられたことになる。
しかし、あの男は僕の住所や連絡先を知っているのだろうか。僕はあの男には住所はおろか名前だって名乗ってはいない。しかし、僕がパソコンを欲しがっていること、新人賞に応募しようとしていることを知っていた。
「どういうことだろう」
僕は薄汚れたワープロを開けて電源を入れてみた。新規文書作成にカーソルを合わせる。書式設定はいつものように30×40にした。ワープロで一枚書くことによって原稿用紙で三枚を書く計算になる。
湿ったため息をひとつついた後、僕は何気なく、「ジャッカルの青春 百枚」と頭の部分に書いてみた。これは僕が現在書きかけの原稿で冒頭の二十枚くらいで行きづまってしまった作品だ。間に合うならば文學海に応募するつもりでいたものだ。
どこも何も変わらない。ローマ字入力した文字が変換されるのが重いのまで同じだ。
画面には「ジャッカルの青春 百枚」という文字が蒼白く映しだされている。
僕は深い溜め息を吐き出し、ぼんやり画面を眺めた。
それにしても気にかかるのは、
「そのうちお代はもらいに行くよって」
と言ったあの男の言葉だ。おそらく見てくれから察するにまともな職業についている人物ではあるまい。後でどんな難癖をつけてくるかわかったものではない。
「最悪、消費者センターか警察にでも届けようかな」
そんなことをぼんやり考えていた、そのときだった。
キーに触ってもいないのにカーソルが勝手に動きだして文章をつむぎだしているのだ。変換は相変わらず遅いものの着実に文字が画面を埋めていく。
三十分ほどでカーソルの動きがとまった。画面上部の表示は白抜きの文字で「和文 A4 縦書 中明朝 三十四枚目」とある。調べてみると原稿用紙百枚分、三十三枚と十三行だった。ほぼ百枚、きっかりの数字だ。
しかも、この機種では七十枚以上書くときは、一度フロッピーに落とさないと容量が一杯になって、それ以上書けなくなるのだが、そんな様子もない。
僕はあらためて画面を食い入るように眺めた。カーソルを一枚目に移動させ、最初から読み返してみる。
僕が二十枚ほど書いたものとは筋立てがまったく違っていて、圧倒的に面白かった。
特に圧巻だったのはエンディングだ。助手席に自分の女、奈於美を乗せた主人公、健二がフェラーリで高速道路を走っていると対向車線のトラックが横転してきて中央分離帯を突っ切り、衝突する。
道路に投げ出された健二は後続車輌に次々に轢かれる。
やがて敵役の紫のスーツを着た、柄の悪い、関西弁を話す金貸しが現れ、かろうじて息のある健二の脳天めがけて拳銃の引き金をひく。
脳ミソをアスファルトに巻き散らかし、血を吐いて死ぬ場面などは実際に見てきたように書いてある。
「これは凄い。いったい......」
いったいどういうことだろう。目の前にある原稿は構成、描写、文体、一分の隙もないような小説だった。あの男の言ったことは本当だったのか。仮に本当だとするならば僕はこの原稿の一番最後に「OO賞受賞」と書けば、本当に賞が取れるのかもしれない。
あらためて最初から読み返してみる。出来上がった原稿はどちらかといえばエンターテイメント小説であって純文学ではなかった。 さて、どうしよう?
僕はどの賞に応募するべきだろう。この原稿の出来映えならば、どの賞に応募しても受賞は間違いないように思われた。
文學海の賞金は五十万円、それに対してエンターテイメント小説の新人賞である、「小説北斗新人賞」や「小説新腸」の賞金は百万円だ。カネだけでいうならば「小説富士」や「小説新腸」に応募するべきだろう。
だが、小説北斗新人賞や小説新腸の応募締め切りは半年後、発表は更に一年後だ。結果が出るまで合計一年半待たなくてはならない。それに対して文學海新人賞の締め切りは来月、発表は半年後だ。結果は早く出る方が望ましい。
どこに応募するべきだろう?
悩み抜いた末に僕は文學海に応募することにした。
恐る、恐る、(了)と書かれた文章の最後に文學海新人賞、ついでに芥皮賞受賞と書いてみた。
F8(印刷)、全文印刷のキーを押す。リボンを新しいものに交換して用紙をセットした。
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印刷はこの機械もやはり遅かった。原稿用紙換算で百枚印刷するのにリボン交換や何かも含めて六時間くらいかかった。休みの半日がまるまる潰れた計算になる。
印刷が終わるころには陽もとっぷりと暮れかかっていた。印刷が終わった原稿の右肩を黒い紐で綴じ、茶色の封筒に入れた。封をして、
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ところが今回は違う。
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翌日
翌日、僕は昼休みの時間を利用して郵便局へ行った。自転車の前カゴに置かれたカバンの中には値千金の原稿が入っている。道路は昨夜遅くから降り出した雨のせいで、水たまりがあちこちに出来ていた。アスファルトを行き交う自動車が水たまりにタイヤを突っ込むと飛沫をあげる。
僕は原稿を濡らさぬように注意深く自転車を転がした。
郵便局で封筒の重さを計ってもらうと、
「二百円です」
と言われた。
僕は年賀ハガキのお年玉四等で当たった八十円切手一枚と五十円切手二枚を備え付けのスポンジで濡らして茶封筒の左上部に貼りつけた。
「二十円切手、一枚」
足りない分を窓口に座った黒縁メガネのオバチャンに言う。オバチャンはぶっきらぼうに十円玉二枚を受け取ると、放り投げるようにして二十円切手を円いプラスチックの皿に入れてよこした。
僕は受け取った二十円切手を五十円切手の下に貼りつけた。
封筒を窓口横のポストに投函して壁にかけられた時計を見た。針は十二時四十五分を指していた。
「いけね」
遅刻するとまた山本課長にドヤされる。僕はあわてて外に出ると自転車に股がり、会社へ向かって全速力でペダルを踏んだ。
立ちこぎでペダルを踏むと、風が僕の顔をなでつけた。何とも言えず心地良かった。
会社に戻ると、十二時五十五分、ギリギリの時刻だった。他の従業員の連中は、皆、思い思いに日陰で寝そべったり、タバコを吹かしたりして時間をつぶしている。
「半年後にはこいつらともオサラバかな」
そう思うと彼らに対する理由のない優越感が込み上げてきた。
「早く、半年たたないかな」
作業しながらもそんなことばかり考えていた。
退屈きわまりない仕事を何とか終え、僕は沈む夕陽を見ながら帰宅した。
夕飯を食べ終わり一息ついた後、思案した。
さて、これからどうしよう?
文學海の発表まであと六ヶ月もある。その間、昼間の仕事だけをこなすのはあまりにも退屈だ。発表まで六ヶ月もあるならば、他の新人賞にも応募してみるのも手じゃないか。
そう考えた僕は片っぱしから「軍像」「小説ミステリー」「歴史小説新人賞」等、応募締切りが間近なものから順に応募することにした。
なにしろ原稿は勝手に出来上がるのだ。僕がするべきことといえば、最初のタイトルと枚数の入力、終わりのOO賞受賞という文字を入力すること、それに出来上がった原稿を印刷することくらいのものだ。
僕は難なく数本の原稿を仕上げて応募した。後は結果が出るのを待つばかりだ。
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僕は原稿を濡らさぬように注意深く自転車を転がした。
郵便局で封筒の重さを計ってもらうと、
「二百円です」
と言われた。
僕は年賀ハガキのお年玉四等で当たった八十円切手一枚と五十円切手二枚を備え付けのスポンジで濡らして茶封筒の左上部に貼りつけた。
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足りない分を窓口に座った黒縁メガネのオバチャンに言う。オバチャンはぶっきらぼうに十円玉二枚を受け取ると、放り投げるようにして二十円切手を円いプラスチックの皿に入れてよこした。
僕は受け取った二十円切手を五十円切手の下に貼りつけた。
封筒を窓口横のポストに投函して壁にかけられた時計を見た。針は十二時四十五分を指していた。
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遅刻するとまた山本課長にドヤされる。僕はあわてて外に出ると自転車に股がり、会社へ向かって全速力でペダルを踏んだ。
立ちこぎでペダルを踏むと、風が僕の顔をなでつけた。何とも言えず心地良かった。
会社に戻ると、十二時五十五分、ギリギリの時刻だった。他の従業員の連中は、皆、思い思いに日陰で寝そべったり、タバコを吹かしたりして時間をつぶしている。
「半年後にはこいつらともオサラバかな」
そう思うと彼らに対する理由のない優越感が込み上げてきた。
「早く、半年たたないかな」
作業しながらもそんなことばかり考えていた。
退屈きわまりない仕事を何とか終え、僕は沈む夕陽を見ながら帰宅した。
夕飯を食べ終わり一息ついた後、思案した。
さて、これからどうしよう?
文學海の発表まであと六ヶ月もある。その間、昼間の仕事だけをこなすのはあまりにも退屈だ。発表まで六ヶ月もあるならば、他の新人賞にも応募してみるのも手じゃないか。
そう考えた僕は片っぱしから「軍像」「小説ミステリー」「歴史小説新人賞」等、応募締切りが間近なものから順に応募することにした。
なにしろ原稿は勝手に出来上がるのだ。僕がするべきことといえば、最初のタイトルと枚数の入力、終わりのOO賞受賞という文字を入力すること、それに出来上がった原稿を印刷することくらいのものだ。
僕は難なく数本の原稿を仕上げて応募した。後は結果が出るのを待つばかりだ。
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半年後
半年後、文學海新人賞を主催する文藝夏冬から電話があった。最終選考に残っているという。ここまでは前回の応募と同じだった。 前々月に予選通過作の発表があり、僕の名前の上にマルがついていたので、かなりイイ線まで行っていることは実感できていた。しかし、こうしてあらためて連絡をもらうと、何か、こう、形容しがたい、浮かれた気分になる。
出版社とのやりとりとは別に僕の日常生活は退屈きわまりない、地味で面白味のないものだった。
午前七時に目を覚ますとアルミ工場へ出社。本当ならクルマで通いたいのだが買うカネがないので自転車、しかもママチャリに股がって、だ。雨の日にはビニール傘をさす。タイムカードを押したら、工場内に響きわたる、やる気のないラジオ体操に合わせて、形だけ躯を動かす。
十時に十分間の休憩をとり、自動販売機で八十円のパックジュースを飲む。その後、十二時になると食堂で会社が取ってくれる、揚げ物ばかり入っている仕出し弁当を食べる。一時に再び作業開始。三時にもう一度十分間の休憩、五時まで作業。残業があるときは六時、ないし七時まで作業。
アルミの粉まみれになって一日が終わる。
よくこれで生きていられるな、というくらいの単調でつまらない毎日だ。心の糧に小説を書き、夢を食って生きていると言っても過言ではなかった。
そんな味気ない毎日だったが、ほどなくして受賞したという報せが入った。
選評では山田双葉さんと正田島彦さんが僕の原稿を絶賛していたという。
そのことを告げた編集者は、
「おめでとうございます」
と言ったが何故か僕の心は浮かなかった。きっと自分の実力じゃないもので賞を取ったからだろうか。
受賞式に出席するため文藝夏冬の本社ビルまで行った。さまざまな人から祝福されたが今ひとつ実感が湧かない。
インタビューでも薄ら寒いものしか感じなかった。
賞金が出たらパソコンとプリンターを買ってエディターのソフトを入れるという僕の目論見は既に意味のないものに成り下がっていた。あのワープロでしか原稿を書けない以上、そんなものを買っても何の価値もない。
味気ない料理を頬張りパーティー会場を後にした僕は、ふと自分が文學海新人賞受賞の後に書き加えた文字を思い出した。
「芥皮賞受賞」
確かにそう書いたはずだった。
あの男の予言の通りになるのであれば、僕はデビュー作で芥皮賞受賞を飾ることになる。
少し出来すぎのような気もするが、あの男の言った通りになるならばそういうことになる。
僕は気持ちの悪い汗が脇から滲み出てくるのを感じた。
それからはとんとん拍子だった、応募したすべての新人賞を総ナメにした。文學海と同じような受賞式に出席し、自分でも何を言ってるのか判らないようなインタビューを受けた。
賞金も入った。一冊の本になる分量の原稿を書かなくてはいけなかった新人賞のものについては即、単行本化され印税も入ってきた。『神童現る』なんてことを本の帯につける版元もあった。
筆一本で食っていけそうなので会社も辞めた。
一番最初に使っていたDX-7は部屋の隅で埃をかぶっていた。
そんな矢先、再び文藝夏冬の編集者から連絡があった。
芥皮賞の最終選考に残っているというのだ。受賞の決定はひと月後、新橋の料亭、「気楽」で行なわれるという。
この調子でいけば受賞は間違いないだろう、という。
文夏の編集者は続けて言った。
「あれは百枚ほどの小説なんで一冊の本にはならないんですよ。あと三百枚ほど何か書いてもらえませんかね。できれば百枚くらいのやつを三本ほど書いていただけるとありがたいのですが......。まあおそらく受賞は確実でしょう。前評判では圧倒的に『ジャッカルの青春』ですよ。受賞の発表があった直後に単行本化できるように、
・ ・今のうちから何か書いておいて下さいよ。ウチも他社ばかりに先生の本出されちゃたまりませんからね。芥皮賞受賞を機会にウチも大きく儲けさせてもらいますよ」
先生なんて呼ばれたのは生まれて初めてだった。
僕は環境の変化にとまどいながらも、魔法のワープロのおかげで百枚ほどの小説を三本書き上げ、そのうちのひとつを新人賞受賞後第一作として文學海に発表した。
これも評判は上々だった。
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出版社とのやりとりとは別に僕の日常生活は退屈きわまりない、地味で面白味のないものだった。
午前七時に目を覚ますとアルミ工場へ出社。本当ならクルマで通いたいのだが買うカネがないので自転車、しかもママチャリに股がって、だ。雨の日にはビニール傘をさす。タイムカードを押したら、工場内に響きわたる、やる気のないラジオ体操に合わせて、形だけ躯を動かす。
十時に十分間の休憩をとり、自動販売機で八十円のパックジュースを飲む。その後、十二時になると食堂で会社が取ってくれる、揚げ物ばかり入っている仕出し弁当を食べる。一時に再び作業開始。三時にもう一度十分間の休憩、五時まで作業。残業があるときは六時、ないし七時まで作業。
アルミの粉まみれになって一日が終わる。
よくこれで生きていられるな、というくらいの単調でつまらない毎日だ。心の糧に小説を書き、夢を食って生きていると言っても過言ではなかった。
そんな味気ない毎日だったが、ほどなくして受賞したという報せが入った。
選評では山田双葉さんと正田島彦さんが僕の原稿を絶賛していたという。
そのことを告げた編集者は、
「おめでとうございます」
と言ったが何故か僕の心は浮かなかった。きっと自分の実力じゃないもので賞を取ったからだろうか。
受賞式に出席するため文藝夏冬の本社ビルまで行った。さまざまな人から祝福されたが今ひとつ実感が湧かない。
インタビューでも薄ら寒いものしか感じなかった。
賞金が出たらパソコンとプリンターを買ってエディターのソフトを入れるという僕の目論見は既に意味のないものに成り下がっていた。あのワープロでしか原稿を書けない以上、そんなものを買っても何の価値もない。
味気ない料理を頬張りパーティー会場を後にした僕は、ふと自分が文學海新人賞受賞の後に書き加えた文字を思い出した。
「芥皮賞受賞」
確かにそう書いたはずだった。
あの男の予言の通りになるのであれば、僕はデビュー作で芥皮賞受賞を飾ることになる。
少し出来すぎのような気もするが、あの男の言った通りになるならばそういうことになる。
僕は気持ちの悪い汗が脇から滲み出てくるのを感じた。
それからはとんとん拍子だった、応募したすべての新人賞を総ナメにした。文學海と同じような受賞式に出席し、自分でも何を言ってるのか判らないようなインタビューを受けた。
賞金も入った。一冊の本になる分量の原稿を書かなくてはいけなかった新人賞のものについては即、単行本化され印税も入ってきた。『神童現る』なんてことを本の帯につける版元もあった。
筆一本で食っていけそうなので会社も辞めた。
一番最初に使っていたDX-7は部屋の隅で埃をかぶっていた。
そんな矢先、再び文藝夏冬の編集者から連絡があった。
芥皮賞の最終選考に残っているというのだ。受賞の決定はひと月後、新橋の料亭、「気楽」で行なわれるという。
この調子でいけば受賞は間違いないだろう、という。
文夏の編集者は続けて言った。
「あれは百枚ほどの小説なんで一冊の本にはならないんですよ。あと三百枚ほど何か書いてもらえませんかね。できれば百枚くらいのやつを三本ほど書いていただけるとありがたいのですが......。まあおそらく受賞は確実でしょう。前評判では圧倒的に『ジャッカルの青春』ですよ。受賞の発表があった直後に単行本化できるように、
・ ・今のうちから何か書いておいて下さいよ。ウチも他社ばかりに先生の本出されちゃたまりませんからね。芥皮賞受賞を機会にウチも大きく儲けさせてもらいますよ」
先生なんて呼ばれたのは生まれて初めてだった。
僕は環境の変化にとまどいながらも、魔法のワープロのおかげで百枚ほどの小説を三本書き上げ、そのうちのひとつを新人賞受賞後第一作として文學海に発表した。
これも評判は上々だった。
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ひと月後
ひと月後、僕は「ジャッカルの青春」で芥皮賞を受賞した。一部ではこれは純文学ではない、という声も聞かれたようだが、他に有力な対抗作もないことからすんなり決まった。
芥皮賞の受賞式で挨拶をしている自分が信じられなかった。昨年の今ごろは薄汚れた作業服を着て、日々の糧を得るためにアルミの粉にまみれて仕事をしていた僕が、着付けない背広を身にまとい、ネクタイを締めて喋っている。
小説の話運びの上手さとは裏腹に受賞式でのスピーチはとっちらかって、取りとめのつかないものだった。自分でも何を言っているのかさっぱり解らなかった。
何を話したかはまったく覚えていない。唯一覚えているのは選考委員の一人である宮本照夫さんに声をかけられたことだ。
「近年、稀にみる傑作だよ。これからもこの調子で頑張れよ」
僕は何と答えて良いか分からなかった。
こんなにうまく行って良いのか。
僕はワープロの電源を入れるのが何となく恐かった。
しかし、原稿の注文は絶え間なく入ってきた。あのワープロは次々に原稿をこなしていく。適当に思いつきで入力したタイトルでもちゃんと形になっているのだ。恋愛小説、推理小説、歴史小説、魔法のワープロは何でも書き上げた。
僕の書いた本は書店のベストランキングでも常に上位にあった。映像化されたものもいくつかあり、莫大な権利収入が僕の銀行口座に振り込まれた。無論、映画やドラマもヒットした。書籍もそれと連動して売り上げを伸ばした。
担当の編集者などは、
「このまま行けば長者番付にのるのも確実ですから、今のうちに会社組織にするなり、クルマ買うなり、何らかの税金対策しておいた方がいいですよ」
とまで言うようになった。
多額の印税が入り、僕は柄にもなくフェラーリを買ってしまった。三百万円ほどしたが今の僕には大した出費ではない。
編集者や文壇の先輩に連れられて銀座の文壇バーなどにも出入りするようにもなった。今では文壇バーも以前ほど盛んではないらしいが、座っているだけで目の玉の飛び出るような請求書がまわってきた。それでも僕には痛くも痒くもなかった。
すべてが現実感の伴わない、それこそ自分の書いた小説のような虚構の世界の出来事のような気がした。
女も出来た。つきあいのある出版社、大学館の受付に座っていた女だ。女の名前、奈於美は奇しくもデビュー作のヒロインと同じ名前だった。 、 、 、
色恋沙汰とはとんとしばらくご無沙汰だった僕は久しぶりの奈於美との恋愛を楽しんだ。今の僕にはうなるほどのキャッシュがある。それを生み出す、打出の小槌もある。
何もかもがうまく行き過ぎて恐いくらいだった。
魔法のワープロは印刷速度こそ遅いものの、いくつもの傑作物語を紡ぎだした。
「まったく......、ワープロ様々だぜ」
ワープロに向かって両手を合わせたいくらいだった。
それにしても気になるのは、この魔法のワープロをくれたあのガラの悪い男だ。
「お代はそのうち、出世払い」
と、あの男は言っていたが一向に姿を現わす気配もない。これだけ派手にベストセラーランキングに入れば、あの男の目にとまっても良さそうなものだが......。
「まあ、いいか」
僕はいつしか、あの男の存在を記憶の片隅からも消し去ってしまっていた。
何もかも有頂天だった。
酵素ドリンク
芥皮賞の受賞式で挨拶をしている自分が信じられなかった。昨年の今ごろは薄汚れた作業服を着て、日々の糧を得るためにアルミの粉にまみれて仕事をしていた僕が、着付けない背広を身にまとい、ネクタイを締めて喋っている。
小説の話運びの上手さとは裏腹に受賞式でのスピーチはとっちらかって、取りとめのつかないものだった。自分でも何を言っているのかさっぱり解らなかった。
何を話したかはまったく覚えていない。唯一覚えているのは選考委員の一人である宮本照夫さんに声をかけられたことだ。
「近年、稀にみる傑作だよ。これからもこの調子で頑張れよ」
僕は何と答えて良いか分からなかった。
こんなにうまく行って良いのか。
僕はワープロの電源を入れるのが何となく恐かった。
しかし、原稿の注文は絶え間なく入ってきた。あのワープロは次々に原稿をこなしていく。適当に思いつきで入力したタイトルでもちゃんと形になっているのだ。恋愛小説、推理小説、歴史小説、魔法のワープロは何でも書き上げた。
僕の書いた本は書店のベストランキングでも常に上位にあった。映像化されたものもいくつかあり、莫大な権利収入が僕の銀行口座に振り込まれた。無論、映画やドラマもヒットした。書籍もそれと連動して売り上げを伸ばした。
担当の編集者などは、
「このまま行けば長者番付にのるのも確実ですから、今のうちに会社組織にするなり、クルマ買うなり、何らかの税金対策しておいた方がいいですよ」
とまで言うようになった。
多額の印税が入り、僕は柄にもなくフェラーリを買ってしまった。三百万円ほどしたが今の僕には大した出費ではない。
編集者や文壇の先輩に連れられて銀座の文壇バーなどにも出入りするようにもなった。今では文壇バーも以前ほど盛んではないらしいが、座っているだけで目の玉の飛び出るような請求書がまわってきた。それでも僕には痛くも痒くもなかった。
すべてが現実感の伴わない、それこそ自分の書いた小説のような虚構の世界の出来事のような気がした。
女も出来た。つきあいのある出版社、大学館の受付に座っていた女だ。女の名前、奈於美は奇しくもデビュー作のヒロインと同じ名前だった。 、 、 、
色恋沙汰とはとんとしばらくご無沙汰だった僕は久しぶりの奈於美との恋愛を楽しんだ。今の僕にはうなるほどのキャッシュがある。それを生み出す、打出の小槌もある。
何もかもがうまく行き過ぎて恐いくらいだった。
魔法のワープロは印刷速度こそ遅いものの、いくつもの傑作物語を紡ぎだした。
「まったく......、ワープロ様々だぜ」
ワープロに向かって両手を合わせたいくらいだった。
それにしても気になるのは、この魔法のワープロをくれたあのガラの悪い男だ。
「お代はそのうち、出世払い」
と、あの男は言っていたが一向に姿を現わす気配もない。これだけ派手にベストセラーランキングに入れば、あの男の目にとまっても良さそうなものだが......。
「まあ、いいか」
僕はいつしか、あの男の存在を記憶の片隅からも消し去ってしまっていた。
何もかも有頂天だった。
酵素ドリンク
約束
今日は奈於美との約束のある日だ。作家は自由業だから土日、祝祭日も平日も関係なく時間が取れるのだが、奈於美はOLだからそんなわけにはいかない。
「取材が必要で......」
とか何とか言って出版社を欺いて、フランス旅行の費用を出させた僕はつい二日ほど前、日本に帰ってきたばかりだ。フランス土産のコロンとスカーフ、それにバッグを奈於美のために買ってきてやった。
土産を渡す。
それを口実に今日は奈於美と愛しあうのだ。
駅前で奈於美を拾った僕は助手席においてあったコロン、スカーフ、バッグの入った紙袋を奈於美に見せた。
奈於美は子供のように喜んだ。
「うれしい」
そう言ってさっぱり似合わないブランド物の服を着た僕に抱きついてきた。
予約してあった高級ホテルのレストランまで節税対策のため買ったフェラーリを走らせる。恐ろしく運転が下手なので助手席に奈於美を乗せたまま事故を起こさないか心配だったが、なんとか無事目的地までたどり着いた。ホテルのレストランでメシを食うのは、その後のことも考えてのことだ。当然、部屋も予約しておいた。たとえ部屋を使うことがなく、数万円の一泊料金が無駄になっても今の僕にはその程度のカネは痛くも痒くもない。
僕はどうにかホテルの地下駐車場まで、ぶつけることも事故を起こすこともなくフェラーリを転がした。
駐車場からエレベーターに乗り、フロントで部屋の鍵を受け取る。奈於美は僕が部屋の鍵を受け取ったのを見ても顔色ひとつ変えなかった。
僕たち二人は再びエレベーターに乗り込み、最上階にあるレストランへ向かった。密室となったエレベーター内には他に誰もおらず、奈於美と間をもたすのに苦労した。
二人だけの時間がとても長く感じられた。
エレベーターはしばらくの沈黙の後、最上階についた。
二人はレストランに向かった。
ドアを押すと店の人間に案内されるままに席についた。
夜景を見ながらの食事。
悪くない。
目の前にはイイ女もいる。
前菜からはじまり、次々と皿が運ばれてくる。
名前もわからぬフランス料理を平らげ、ワインを数本空にした。ナイフとフォークの使い方もおぼつかなかったが、僕には変な自信があった。
「いやー、向こうで本場のものを食うと日本に来てからも食いたくなるね」
味も満足に分からない。メニューも満足に読めないくせに、僕は出まかせを言った。本当は吉野屋の牛丼や屋台のラーメンの方がよっぽど美味かった。
目の前の肉とも魚ともつかない、白いソースにまみれた料理をナイフとフォークで切っていると、力を入れすぎたのか、小さな塊が皿から滑って床に落ちた。
奈於美はそんな僕を見て笑っている。
この笑いはうれしくて笑っているのだろうか。
それとも嘲りの笑いだろうか。
どっちだっていいじないか。
今晩、僕はこいつを食うのだ。
目の前に置かれたソテーのように。
ただ、それだけだ。
僕はテーブルの下で右足の靴を脱いだ。膝を伸ばし、スカートの中の、奈於美自身へと、つま先を近づける。テーブルクロスに隠れて僕の足は他の客やウェイターには見えない。
爪先が奈於美のスカートの下をグリグリと抉る。
「二人で、今から暗いところ行こうか? 、あん」
ワインと雰囲気に勝手に酔っ払った僕は作ったばかりのカードで支払いを済ませた。
奈於美を誘いエレベーターに乗る。
23Fと書かれたボタンを押した。
「いいだろ」
僕は奈於美の耳元でささやく。自分がハードボイルド小説の主人公にでもなったつもりだった。
酔いが僕の気を大きくした。エレベーターの中には他に誰もいない。奈於美の口唇を貪り、軽く歯を立てて噛んだ。
しばらく奈於美の口唇を味わった後、奈於美が僕の躯を押した。二人の躯は距離をおいた。
「だめよ。人が来たらどうするの」
「かまうもんか」
「あなたは売れっ子の作家先生なのよ。週刊誌の餌食になったらマズいわ」
「週刊誌を出してる出版社からは僕の本も出ている。自分のところの作家をつぶすような真似はヤツらだってしないよ」
エレベーターの中の灯は二人だけを照らしている。僕が再び奈於美の口唇を求めようとした瞬間、鈴を鳴らしたような音がした。 のランプが光り、ドアが開く。結局、エレベーターには誰も乗ってこなかった。誰もいない密室での、小さな情事に僕は満足だった。
僕は奈於美の腰に手をまわし、ふわふわの絨毯の上を歩く。足音なんかまったくしない。いつもなら二人並ぶと奈於美が背の低い僕を見下ろす格好になるのだが、今日はそれほど気にならない。
酔っているのだろうか。
ふと足元を見ると普段なら高いヒールを履いている奈於美が踵の低い靴を履いている。僕は奈於美の心づかいが嬉しかった。しかし、普段ほどではないにせよ奈於美が僕より背が高く、見下ろされる形なのは変わらなかった。
僕はフロントで受け取ったキーを鍵穴に差し込みドアを開けた。腰にまわしていた手をそのまま部屋の奥のベッドへ導く。ベッドの上に座ろうとする奈於美の両肩を押さえつける。
奈於美は嫌がる様子もなかった。
僕はもどかしく服を躯から引き剥がした。暗闇の中でストッキングの破ける音がした。僕は股間のミサイルの命ずるままに構わず攻撃を加えた。僕の舌はシャワーも浴びていない奈於美の躯を隅々まで舐めつくした。名前も判らぬフランス料理よりこっちの方がよっぽど美味い。これこそが今晩のメインディッシュだ。
僕の尖端は奈於美の最後の砦に突撃した。粘膜に覆われた砦は僕の攻撃をやさしく包みこんだ。腰を動かし、更なる攻撃を加えてのち、僕のミサイルは奈於美の砦のなかで爆発し、見事に目的を果たした。
閃々として光彩の輝く時間だった。
「シャワー、浴びてくる」
奈於美はそう言って一糸纏わぬ姿でバスルームへと歩いた。ふくよかな臀部の後ろ姿を眺めると終わった後の興奮がさらに掻き立てられた。
ベッドでぼんやりしているとシャワーの雫がタイルを打つ音が聞こえる。何もかもが夢のようだった。あのワープロを手に入れて以来、すべてがうまく行きすぎるほどうまく行っていた。
ほどなくしてバスタオルを纏った奈於美がバスルームから出てきた。髪を濡らさないようにシャワーキャップを被っているのが少し興醒めだった。僕は奈於美の黒い、長い、髪を気に入っていた。
「あなたも浴びてきたら」
言われるままに僕もバスルームでシャワーを浴びた。
シャワーからあがるとベッドに横たわった。
枕元のランプに灯をともす。奈於美は僕に腕枕をされている。しばらく微睡んで奈於美が言った。
「ねぇ、海が見たいわ」
甘えた声だった。
僕たち二人は脱いだばかりの服を着てエレベーターに乗った。フロントで部屋の鍵を一旦預けて、地下駐車場へ下りた。駐車場は閑散として誰もいない。キーを差し込みエンジンをかけると誰もいない駐車場にエンジン音が谺する。ライトをつけると心なしか駐車場の隅に人影が見えたような気がした。
誰だ? 奈於美が言ったように週刊誌の記者か。
凝視して見たが誰もいない。
「どうしたの? 」
奈於美が訊く。
「いや、何でもない」
フェラーリの車内は思ったより狭く、乗心地が悪い。デザインと走行性を重視するとこういう結果になるのだろう。
奈於美を横に乗せ、クルマを滑らせた。
道路はとても空いている。僕のフェラーリのために整理されたのでは、と思えるほどクルマも人もいなかった。いつもなら、もう少し往来があるだろう。
一般道路でも良かったのだが、僕は高速に乗った。フェラーリの快感を奈於美にも味わって欲しかったからだ。
左ハンドル専用の発券機で券を受け取ると僕はアクセルを踏みっぱなしにした。凄まじいエンジン音とともにフェラーリは急加速した。
フェラーリのウィンドウを開ける。風に吹かれて奈於美の黒い、長い髪が僕の鼻先をかすめる。何というコロンか知らぬが香しい匂いが鼻孔の奥の性欲を刺激する。次に会うときは僕の買ってきたコロンをつけて来るだろう。
高速は下の一般道とは違い、数台のクルマが走っていた。だが、どれもそんなに大したクルマではない。
「ワー、すごぉい」
前を走っている国産車をゴボウ抜きすると奈於美は子供のように無邪気によろこんだ。僕はますます調子にのってアクセルを踏んだ。
窓から吹き込む風が頬にあたる。愛しあった直後の火照った躯を冷やすようで心地よい。
スピードメーターは百五十キロを超えた。
僕は自分が小説の主人公にでもなった気分だった。
それにしても......。窓を流れる景色、どこかで見た光景だ。いや、読んだことがある、というべきか。僕のデビュー作「ジャッカルの青春」のエンディングの部分と非常によく似ている。
いや、待てよ。景色が似ているだけではない。「ジャッカルの青春」の主人公もラストの場面でフェラーリに乗っていたのではなかったか。
それだけではない。高速を走っているところ、横に奈於美という名前の女が座っていることまでまったく同じだ。
「......」
僕は何となく背中に薄気味悪いものが忍びよってくる気配を感じてミラーで後ろを覗いた。顔を近づけると、二重目蓋の鼻筋が通った、彫りの深い、凛々しい顔の男が映っている。
「?! 誰だ。オマエは! 」
鏡に向かって僕は絶叫した。僕が叫ぶと鏡のなかの男も僕と同じように口を動かす。いつのまにこんなヤツが乗り込んだのだ。後ろを振り返ってみる。
誰もいなかった。
......?
もう一度、鏡をのぞき込む。顔を近づけると向こうもこっちに寄ってくる。
「ん、え、あぁ! ......? 」
何と鏡のなかに映っている男は紛れもない自分だった。僕はいつからこんな顔になった。そりゃ過去にはこんな顔にあこがれたこともあった。だが顔を整形した覚えなど毛頭ない。
僕の顔はもっと芒洋として凹凸がなく一重瞼で、典型的な東洋人の顔をしているはずだ。
こんな顔の男は僕じゃない。
脂汗がつい先刻、シャワーを浴びたばかりの躯にまとわりつく。シャツがベットリ躯に吸いつく。
どういうことだ?
気がつくとスピードメーターは二百を超えている。ブレーキを軽く踏まなければ......。
「ねえ、健二ィ」
奈於美が言った。
「健二? 」
僕の名前は健二じゃない、一郎だ。
奈於美はほかの男の名前で間違って、僕を呼んだのか。前の男だろうか。それとも小説の読みすぎだろうか。
否、実際、この彫りの深い顔の男は健二ではないのか。
ということは、僕が健二? 。
いったい、どういうことだ。
頭が混乱してきた。ブレーキを軽く踏んだが、一向に速度は落ちない。
「ニイちゃん、ぼちぼち利息つけてゼニ、払てもらうで」
横を見ると助手席に乗っているのは奈於美ではなく、いつぞやの、あの男だった。紫のスーツに鰐皮のベルト、白のビットモカシンと
・ ・ ・ ・
いういでたちまであの日と同じだった。
「あれ? ......、え、奈於美は」
僕はブレーキをさらに踏み込んだ。それでも速度は落ちるどころか、さらに加速する。スピードメーターの針は二百五十を指している。
どうしたんだ。ブレーキが壊れたのか。それともアクセルとブレーキを踏みまちがえたのか。
横に座っている男は何者だ。
なぜ、ここにいる。
奈於美はどこへ行った。
ブレーキが効かずに加速するところまであの物語と同じだ。前を走るクルマのテールランプが流れ星のように僕に向かって飛んでくる。
たいしてうまくもないハンドルさばきで僕はなんとか避けた。
確かあの話のラストは対向車線を走っているトラックが横転して
フェラーリにぶつかり、主人公の健二は道路に投げ出される。健二の躯の上を後続車輌が次々と轢き、健二はペシャンコになる。
そして最後に紫のスーツを着た、柄の悪い、関西弁を話す、金貸しに拳銃で撃たれて死ぬはずだ。
紫のスーツ?
関西弁をしゃべる?
あの男とそっくりじゃないか。どうして今まで気づかなかったんだ。
僕はいつのまにか小説の主人公になっているのだ。
対向車線を走るクルマのヘッドライトが目を射る。一瞬、何も見えなくなった。
次の瞬間、僕は羽根が生えたように宙を飛んでいる自分を発見した。躯だけでなく意識も宙を浮遊しているようだ。
「毎度ありぃ」
いつぞやの男の声が耳元でした。
遠のいていく意識のなかで鼓膜の奥に響いた、その科白を聞いて僕は安心した。
「大丈夫だ。そんな科白は小説にはない」
きっとこれは夢なのだ。
でも次の瞬間、背骨のたわむ音がした。
目の前にはなぜかアスファルトの道路が広がっている。
後続車輌の重さを背骨で感じながら、僕は地面に向かって血ヘドを吐いていた。
誰かが近づいてくる。
紫のスーツを着た男の足下が見えた。趣味の悪い、白のビットモカシンだ。
カチリと撃鉄を起こす音がした。
金属の冷やりとした感触が、顳顬にあたる。
男は言った。
「ジ、エンド」
火薬のはじける音ともに僕の小説は終わった。
プエラリア
「取材が必要で......」
とか何とか言って出版社を欺いて、フランス旅行の費用を出させた僕はつい二日ほど前、日本に帰ってきたばかりだ。フランス土産のコロンとスカーフ、それにバッグを奈於美のために買ってきてやった。
土産を渡す。
それを口実に今日は奈於美と愛しあうのだ。
駅前で奈於美を拾った僕は助手席においてあったコロン、スカーフ、バッグの入った紙袋を奈於美に見せた。
奈於美は子供のように喜んだ。
「うれしい」
そう言ってさっぱり似合わないブランド物の服を着た僕に抱きついてきた。
予約してあった高級ホテルのレストランまで節税対策のため買ったフェラーリを走らせる。恐ろしく運転が下手なので助手席に奈於美を乗せたまま事故を起こさないか心配だったが、なんとか無事目的地までたどり着いた。ホテルのレストランでメシを食うのは、その後のことも考えてのことだ。当然、部屋も予約しておいた。たとえ部屋を使うことがなく、数万円の一泊料金が無駄になっても今の僕にはその程度のカネは痛くも痒くもない。
僕はどうにかホテルの地下駐車場まで、ぶつけることも事故を起こすこともなくフェラーリを転がした。
駐車場からエレベーターに乗り、フロントで部屋の鍵を受け取る。奈於美は僕が部屋の鍵を受け取ったのを見ても顔色ひとつ変えなかった。
僕たち二人は再びエレベーターに乗り込み、最上階にあるレストランへ向かった。密室となったエレベーター内には他に誰もおらず、奈於美と間をもたすのに苦労した。
二人だけの時間がとても長く感じられた。
エレベーターはしばらくの沈黙の後、最上階についた。
二人はレストランに向かった。
ドアを押すと店の人間に案内されるままに席についた。
夜景を見ながらの食事。
悪くない。
目の前にはイイ女もいる。
前菜からはじまり、次々と皿が運ばれてくる。
名前もわからぬフランス料理を平らげ、ワインを数本空にした。ナイフとフォークの使い方もおぼつかなかったが、僕には変な自信があった。
「いやー、向こうで本場のものを食うと日本に来てからも食いたくなるね」
味も満足に分からない。メニューも満足に読めないくせに、僕は出まかせを言った。本当は吉野屋の牛丼や屋台のラーメンの方がよっぽど美味かった。
目の前の肉とも魚ともつかない、白いソースにまみれた料理をナイフとフォークで切っていると、力を入れすぎたのか、小さな塊が皿から滑って床に落ちた。
奈於美はそんな僕を見て笑っている。
この笑いはうれしくて笑っているのだろうか。
それとも嘲りの笑いだろうか。
どっちだっていいじないか。
今晩、僕はこいつを食うのだ。
目の前に置かれたソテーのように。
ただ、それだけだ。
僕はテーブルの下で右足の靴を脱いだ。膝を伸ばし、スカートの中の、奈於美自身へと、つま先を近づける。テーブルクロスに隠れて僕の足は他の客やウェイターには見えない。
爪先が奈於美のスカートの下をグリグリと抉る。
「二人で、今から暗いところ行こうか? 、あん」
ワインと雰囲気に勝手に酔っ払った僕は作ったばかりのカードで支払いを済ませた。
奈於美を誘いエレベーターに乗る。
23Fと書かれたボタンを押した。
「いいだろ」
僕は奈於美の耳元でささやく。自分がハードボイルド小説の主人公にでもなったつもりだった。
酔いが僕の気を大きくした。エレベーターの中には他に誰もいない。奈於美の口唇を貪り、軽く歯を立てて噛んだ。
しばらく奈於美の口唇を味わった後、奈於美が僕の躯を押した。二人の躯は距離をおいた。
「だめよ。人が来たらどうするの」
「かまうもんか」
「あなたは売れっ子の作家先生なのよ。週刊誌の餌食になったらマズいわ」
「週刊誌を出してる出版社からは僕の本も出ている。自分のところの作家をつぶすような真似はヤツらだってしないよ」
エレベーターの中の灯は二人だけを照らしている。僕が再び奈於美の口唇を求めようとした瞬間、鈴を鳴らしたような音がした。 のランプが光り、ドアが開く。結局、エレベーターには誰も乗ってこなかった。誰もいない密室での、小さな情事に僕は満足だった。
僕は奈於美の腰に手をまわし、ふわふわの絨毯の上を歩く。足音なんかまったくしない。いつもなら二人並ぶと奈於美が背の低い僕を見下ろす格好になるのだが、今日はそれほど気にならない。
酔っているのだろうか。
ふと足元を見ると普段なら高いヒールを履いている奈於美が踵の低い靴を履いている。僕は奈於美の心づかいが嬉しかった。しかし、普段ほどではないにせよ奈於美が僕より背が高く、見下ろされる形なのは変わらなかった。
僕はフロントで受け取ったキーを鍵穴に差し込みドアを開けた。腰にまわしていた手をそのまま部屋の奥のベッドへ導く。ベッドの上に座ろうとする奈於美の両肩を押さえつける。
奈於美は嫌がる様子もなかった。
僕はもどかしく服を躯から引き剥がした。暗闇の中でストッキングの破ける音がした。僕は股間のミサイルの命ずるままに構わず攻撃を加えた。僕の舌はシャワーも浴びていない奈於美の躯を隅々まで舐めつくした。名前も判らぬフランス料理よりこっちの方がよっぽど美味い。これこそが今晩のメインディッシュだ。
僕の尖端は奈於美の最後の砦に突撃した。粘膜に覆われた砦は僕の攻撃をやさしく包みこんだ。腰を動かし、更なる攻撃を加えてのち、僕のミサイルは奈於美の砦のなかで爆発し、見事に目的を果たした。
閃々として光彩の輝く時間だった。
「シャワー、浴びてくる」
奈於美はそう言って一糸纏わぬ姿でバスルームへと歩いた。ふくよかな臀部の後ろ姿を眺めると終わった後の興奮がさらに掻き立てられた。
ベッドでぼんやりしているとシャワーの雫がタイルを打つ音が聞こえる。何もかもが夢のようだった。あのワープロを手に入れて以来、すべてがうまく行きすぎるほどうまく行っていた。
ほどなくしてバスタオルを纏った奈於美がバスルームから出てきた。髪を濡らさないようにシャワーキャップを被っているのが少し興醒めだった。僕は奈於美の黒い、長い、髪を気に入っていた。
「あなたも浴びてきたら」
言われるままに僕もバスルームでシャワーを浴びた。
シャワーからあがるとベッドに横たわった。
枕元のランプに灯をともす。奈於美は僕に腕枕をされている。しばらく微睡んで奈於美が言った。
「ねぇ、海が見たいわ」
甘えた声だった。
僕たち二人は脱いだばかりの服を着てエレベーターに乗った。フロントで部屋の鍵を一旦預けて、地下駐車場へ下りた。駐車場は閑散として誰もいない。キーを差し込みエンジンをかけると誰もいない駐車場にエンジン音が谺する。ライトをつけると心なしか駐車場の隅に人影が見えたような気がした。
誰だ? 奈於美が言ったように週刊誌の記者か。
凝視して見たが誰もいない。
「どうしたの? 」
奈於美が訊く。
「いや、何でもない」
フェラーリの車内は思ったより狭く、乗心地が悪い。デザインと走行性を重視するとこういう結果になるのだろう。
奈於美を横に乗せ、クルマを滑らせた。
道路はとても空いている。僕のフェラーリのために整理されたのでは、と思えるほどクルマも人もいなかった。いつもなら、もう少し往来があるだろう。
一般道路でも良かったのだが、僕は高速に乗った。フェラーリの快感を奈於美にも味わって欲しかったからだ。
左ハンドル専用の発券機で券を受け取ると僕はアクセルを踏みっぱなしにした。凄まじいエンジン音とともにフェラーリは急加速した。
フェラーリのウィンドウを開ける。風に吹かれて奈於美の黒い、長い髪が僕の鼻先をかすめる。何というコロンか知らぬが香しい匂いが鼻孔の奥の性欲を刺激する。次に会うときは僕の買ってきたコロンをつけて来るだろう。
高速は下の一般道とは違い、数台のクルマが走っていた。だが、どれもそんなに大したクルマではない。
「ワー、すごぉい」
前を走っている国産車をゴボウ抜きすると奈於美は子供のように無邪気によろこんだ。僕はますます調子にのってアクセルを踏んだ。
窓から吹き込む風が頬にあたる。愛しあった直後の火照った躯を冷やすようで心地よい。
スピードメーターは百五十キロを超えた。
僕は自分が小説の主人公にでもなった気分だった。
それにしても......。窓を流れる景色、どこかで見た光景だ。いや、読んだことがある、というべきか。僕のデビュー作「ジャッカルの青春」のエンディングの部分と非常によく似ている。
いや、待てよ。景色が似ているだけではない。「ジャッカルの青春」の主人公もラストの場面でフェラーリに乗っていたのではなかったか。
それだけではない。高速を走っているところ、横に奈於美という名前の女が座っていることまでまったく同じだ。
「......」
僕は何となく背中に薄気味悪いものが忍びよってくる気配を感じてミラーで後ろを覗いた。顔を近づけると、二重目蓋の鼻筋が通った、彫りの深い、凛々しい顔の男が映っている。
「?! 誰だ。オマエは! 」
鏡に向かって僕は絶叫した。僕が叫ぶと鏡のなかの男も僕と同じように口を動かす。いつのまにこんなヤツが乗り込んだのだ。後ろを振り返ってみる。
誰もいなかった。
......?
もう一度、鏡をのぞき込む。顔を近づけると向こうもこっちに寄ってくる。
「ん、え、あぁ! ......? 」
何と鏡のなかに映っている男は紛れもない自分だった。僕はいつからこんな顔になった。そりゃ過去にはこんな顔にあこがれたこともあった。だが顔を整形した覚えなど毛頭ない。
僕の顔はもっと芒洋として凹凸がなく一重瞼で、典型的な東洋人の顔をしているはずだ。
こんな顔の男は僕じゃない。
脂汗がつい先刻、シャワーを浴びたばかりの躯にまとわりつく。シャツがベットリ躯に吸いつく。
どういうことだ?
気がつくとスピードメーターは二百を超えている。ブレーキを軽く踏まなければ......。
「ねえ、健二ィ」
奈於美が言った。
「健二? 」
僕の名前は健二じゃない、一郎だ。
奈於美はほかの男の名前で間違って、僕を呼んだのか。前の男だろうか。それとも小説の読みすぎだろうか。
否、実際、この彫りの深い顔の男は健二ではないのか。
ということは、僕が健二? 。
いったい、どういうことだ。
頭が混乱してきた。ブレーキを軽く踏んだが、一向に速度は落ちない。
「ニイちゃん、ぼちぼち利息つけてゼニ、払てもらうで」
横を見ると助手席に乗っているのは奈於美ではなく、いつぞやの、あの男だった。紫のスーツに鰐皮のベルト、白のビットモカシンと
・ ・ ・ ・
いういでたちまであの日と同じだった。
「あれ? ......、え、奈於美は」
僕はブレーキをさらに踏み込んだ。それでも速度は落ちるどころか、さらに加速する。スピードメーターの針は二百五十を指している。
どうしたんだ。ブレーキが壊れたのか。それともアクセルとブレーキを踏みまちがえたのか。
横に座っている男は何者だ。
なぜ、ここにいる。
奈於美はどこへ行った。
ブレーキが効かずに加速するところまであの物語と同じだ。前を走るクルマのテールランプが流れ星のように僕に向かって飛んでくる。
たいしてうまくもないハンドルさばきで僕はなんとか避けた。
確かあの話のラストは対向車線を走っているトラックが横転して
フェラーリにぶつかり、主人公の健二は道路に投げ出される。健二の躯の上を後続車輌が次々と轢き、健二はペシャンコになる。
そして最後に紫のスーツを着た、柄の悪い、関西弁を話す、金貸しに拳銃で撃たれて死ぬはずだ。
紫のスーツ?
関西弁をしゃべる?
あの男とそっくりじゃないか。どうして今まで気づかなかったんだ。
僕はいつのまにか小説の主人公になっているのだ。
対向車線を走るクルマのヘッドライトが目を射る。一瞬、何も見えなくなった。
次の瞬間、僕は羽根が生えたように宙を飛んでいる自分を発見した。躯だけでなく意識も宙を浮遊しているようだ。
「毎度ありぃ」
いつぞやの男の声が耳元でした。
遠のいていく意識のなかで鼓膜の奥に響いた、その科白を聞いて僕は安心した。
「大丈夫だ。そんな科白は小説にはない」
きっとこれは夢なのだ。
でも次の瞬間、背骨のたわむ音がした。
目の前にはなぜかアスファルトの道路が広がっている。
後続車輌の重さを背骨で感じながら、僕は地面に向かって血ヘドを吐いていた。
誰かが近づいてくる。
紫のスーツを着た男の足下が見えた。趣味の悪い、白のビットモカシンだ。
カチリと撃鉄を起こす音がした。
金属の冷やりとした感触が、顳顬にあたる。
男は言った。
「ジ、エンド」
火薬のはじける音ともに僕の小説は終わった。
プエラリア
路上の人
最近は路上でやたらと変なヤツらが声をかけて来やがる。
「アナタハ神ヲ信ジマスカ」
悪魔なら信じるね。
「これからの時代、英語くらいしゃべれないと取り残されますよ。今でしたら、この教材が非常にお安く手に入りまして......」
あたしゃ、今まで海外に行ったことは、ございません。貧乏ヒマなし。ネコ灰だらけ。おさるのオケツは真っ赤っか。近場の温泉でも行ったほうがよっぽど良いよ。
「あなた、最近行き詰まってるでしょ。ご先祖の供養が足りませんね。この壺を買えば......」
西洋便器なら汚れたのが家にあるぜ。あんなものはひとつで充分、ふたつもいらねぇ。
「社長、三千円ポッキリでピチピチのオネーチャンが根元までしゃぶってくれますよ。どうぞ、どうぞ」
そんなウマい話あるわけ、ねーだろ。ビデオでも見てたほうがマシだっつーの。
「ハッパ、アルヨ。ガンジャ、マリファーナ、モク」
不良ガイジンは、国に帰れ!
「シルバー、シルバー、サンゼンゴヒャクエン。シルバー、シルバー、三千五百円、ホンモォノ」
誰の許可を得てこんなところでアクセサリーなんざ売っていやがる。テキヤ衆は黙ってていいのか。
「............」
無言で、まったく口もきかずティッシュをばらまく連中。彼らは巻尺で計ったように一定間隔に並んでやがる。ひょっとして、こんなものにまで縄張りがあるのだろうか。
駅をおりて会社まで行くだけでも一苦労だ。大抵はまったく無視するか、蠅でも追い払うようにうるさそうに手を振って追い払う。
話も聞かない。こんな所は一刻も早く立ち去るに限る。見慣れた光景と無視するのが習慣になった俺。
弱者を食い物にしようとする連中と網にかからないように逃げまどう人々。まったく油断も隙もありゃしない。
この街にやって来て早や、数年が経つ。
いつものように改札を出た俺は定期を改札口に備え付けられた穴に突っ込み、反対側から出てきたそれを抜きとる。行く手を遮っていたロボットのアームのようなものが開く。
俺の生まれた街では定期券は駅員に見せるものだったが、ここでは自動だ。最初に見たときは、
「なんて、渇いた街だ」
と思ったが今ではもう慣れっこになってしまった。
何の感慨もなく俺はただ今日も、ひたすら、会社に向かうべく地下道を急ぎ足で歩いた。
「おや? 」
そこで俺は普段、見慣れぬものを見た。場違いとでも言うべきか。一人の虚無僧だった。男の背後の足もとには、薄汚れた、あまりたいした物も入っていないので、軽そうな、黒のスポーツバッグがひとつ置かれている。それと男の目の前に置かれている木の椀、これが彼の現在の所持品すべてであろう。
一心に念仏を唱えているらしいのだが、ここからではただ口をもごもごと動かしているようにしか見えない。
見慣れた光景に不意に訪れた珍客に興味を覚えた私は彼に近づいた。
木の椀には小銭が数枚入れられている。黒く汚れた足袋。深くかぶった煤けた編笠。顔はここからは見えない。風貌から察するにどこか遠いところから来て......、しかも長旅なのだろう。
エサキン
ピラニアばかりの水槽に不意に餌金魚が一匹紛れ込んだようなものだ。なにしろ、ここの連中と来たら生きている人間の頭の皮を剥がしても何とも思わないヤツらばかりだ。ここで手ぐすね引いているのは屍肉を漁って生きているハイエナばかりなのだ。
何となく興味を持った俺は足下の木の椀に百円玉を一枚入れた。
小銭を入れると虚無僧は深々と頭を下げた。そして尚一層、口を大きく動かして経を唱えるのだが、その声はまったく聞き取れない。
俺は不躾と思いながらも編笠の下から虚無僧の顔をのぞき込む衝動を押さえることができなかった。
美しい貌の青年だった。
陽に焼けた褐色の肌、黒い伏し目がちの瞳、雪を頂いてそびえる
山脈のように通った鼻筋。
この街に来てから、こんな澄んだ瞳を見たのは初めてだった。青年はにっこり俺にほほえんだ。
「どこから来たんだ」
「名古屋から」
経を唱える口を休めて青年は短く応えた。
「これからどこへ行くんだ」
「決めてません」
同じ仏の道を極めるといっても俺が学生時代一緒によく遊んだR大学の仏教学部の連中とは全然ちがう。
ヤツらときたら檀家から出ている親の仕送りで毎月、ソープに行っていたし、着るものだって尻ポケットにラメラメの刺繍の入ったジーパンを履き、首には太い金の鎖をぶらさげていた。ヤクザと間違うようななりをしたヤツも結構いた。肉や魚、酒を飲むことだって何とも思っていない連中だった。
彼の眼は俺の知っている坊主の息子とは全然違っていた。
毎日、毎日、数字、数字、ノルマ、ノルマに追われている俺。カネ万能の世の中で彼のように一途に求道に励んでいるものもいるのだ、ということを知っただけでも俺はうれしかった。
数分ほど、彼に見とれた。
「やばい。遅刻する」
ぐずぐずしていると遅刻してしまう。とんだ道草を食ったものだ。
「元気でな」
短く言い残して俺は会社へ走った。
俺は放浪の修業旅を送る若者が無性に羨ましかった。
会社に来てタイムカードを押すと二分の遅刻だった。普段なら黒字で表示される出社時間が赤字で表示されている。課長に怒られるかもしれない。
「おはようございます」
俺はおずおずとドアを開けた。朝礼の真最中だった。
「エー、そういうわけで今日も一日、グロスノルマ、新規件数ノルマ達成できるように頑張って下さい。以上です」
朝礼が終わった後、俺は課長に呼び止められた。
「何時だと思ってるんだ」
「すいません」
俺はうなだれて頭を下げた。
「まったく、新商品の新規契約、取れてないのオマエだけだぞ。仕事してんのか! 」
俺は逃げるようにして外回りに出た。
その日一日、上司から小言を喰らい、新規の契約も取れず、営業成績もさっぱりふるわなかった俺だが、なぜか清々しい気分だった。
夕刻、俺は会社に戻らず営業車で直帰した。 帰宅した俺は久しぶりに実家に電話してみた。なぜか、たまらなく家族の声が聞きたくなったのだ。そういえば、今日はおふくろの誕生日だ。これは偶然だろうか。呼出音がしばらく鳴った後、聞き覚えのある懐かしい声がした。
「もしもし」
「ああ、俺だよ」
「どうしたの。珍しい」
「ん、いや、ナニ。ちょっと声が聞きたくなったんだ。どう元気」
とりとめのない会話をしばらくした後、俺は受話器を置いた。
「誕生日おめでとう」は照れくさくて言えなかった。
明日、実家に少しカネを送ろう。学生時代、毎月仕送りしてもらった恩返しだ。何十分の一でも構わない。俺は無償に親孝行の真似事をしてみたくなった。
翌朝、出社した俺は朝礼が終わると、ホワイトボードに訪問予定先と帰社予定時間を書き込み、すぐに外回りに出かけた。営業車に乗り込んで、エンジンをかける。アクセルを踏んで道路に出た。
ハンドルを握りながら外の景色を眺めた。見慣れた光景のはずなのに映画のワンシーンのように鮮やかに見える。信号機の光でさえそうだ。青はエメラルド、黄色はトパーズ、赤はルビー、といったところだろうか。
郵便局に着いた俺はカウンターに向かった。 一万円札数枚を現金書留にする。時計を見ると午前十時だった。この時刻に出せば早ければ明日、遅くても明後日には着くだろう。
俺はその後、ホワイトボードに書かれた訪問先を数ヶ所まわり、喫茶店で遅い昼飯を食べた。
喫茶店を出ると、さらに数ヶ所、得意先をまわり会社に帰った。今日はついに新規を取れた。これで何とか課長に会わす顔ができた。
営業日報を書き、課長に提出して、
「おさき」
と小さな声でつぶやいて会社を後にした。
課長は新規の契約を取れたことをさも当然のような顔をして、
「よくやったな」
とも、
「ご苦労さん」
とも何も言わなかった。
それでも俺は別に構わなかった。あの虚無僧と出会って以来、そんな瑣末なことはどうでも良いような気がするのだ。
そろそろ帰宅時間のラッシュが始まる時間だ。数分、歩いて改札に通じるいつもの地下道を俺は歩いた。
地下道はいつもの顔ぶれだった。定間隔に並び、ティッシュやチラシを配る者たち。
俺は無意識にあの虚無僧を目で捜した。捜してどうなるものでもないが、会ってもう一度だけでも何か話してみたかったのだ。彼は昨夜、どこに泊まったのだろう。晩ごはんにありつくことができただろうか。
だが、その青年はどこにもいなかった。既にこの街を後にしたのだろうか。
昨日、青年が托鉢をしていた場所に、かわりに立っていたのは、茶髪の、目つきの悪い男だった。
その男は俺にテレクラのティッシュを何も言わずつかませた。
普段通りの殺伐とした街がそこにあった。
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「アナタハ神ヲ信ジマスカ」
悪魔なら信じるね。
「これからの時代、英語くらいしゃべれないと取り残されますよ。今でしたら、この教材が非常にお安く手に入りまして......」
あたしゃ、今まで海外に行ったことは、ございません。貧乏ヒマなし。ネコ灰だらけ。おさるのオケツは真っ赤っか。近場の温泉でも行ったほうがよっぽど良いよ。
「あなた、最近行き詰まってるでしょ。ご先祖の供養が足りませんね。この壺を買えば......」
西洋便器なら汚れたのが家にあるぜ。あんなものはひとつで充分、ふたつもいらねぇ。
「社長、三千円ポッキリでピチピチのオネーチャンが根元までしゃぶってくれますよ。どうぞ、どうぞ」
そんなウマい話あるわけ、ねーだろ。ビデオでも見てたほうがマシだっつーの。
「ハッパ、アルヨ。ガンジャ、マリファーナ、モク」
不良ガイジンは、国に帰れ!
「シルバー、シルバー、サンゼンゴヒャクエン。シルバー、シルバー、三千五百円、ホンモォノ」
誰の許可を得てこんなところでアクセサリーなんざ売っていやがる。テキヤ衆は黙ってていいのか。
「............」
無言で、まったく口もきかずティッシュをばらまく連中。彼らは巻尺で計ったように一定間隔に並んでやがる。ひょっとして、こんなものにまで縄張りがあるのだろうか。
駅をおりて会社まで行くだけでも一苦労だ。大抵はまったく無視するか、蠅でも追い払うようにうるさそうに手を振って追い払う。
話も聞かない。こんな所は一刻も早く立ち去るに限る。見慣れた光景と無視するのが習慣になった俺。
弱者を食い物にしようとする連中と網にかからないように逃げまどう人々。まったく油断も隙もありゃしない。
この街にやって来て早や、数年が経つ。
いつものように改札を出た俺は定期を改札口に備え付けられた穴に突っ込み、反対側から出てきたそれを抜きとる。行く手を遮っていたロボットのアームのようなものが開く。
俺の生まれた街では定期券は駅員に見せるものだったが、ここでは自動だ。最初に見たときは、
「なんて、渇いた街だ」
と思ったが今ではもう慣れっこになってしまった。
何の感慨もなく俺はただ今日も、ひたすら、会社に向かうべく地下道を急ぎ足で歩いた。
「おや? 」
そこで俺は普段、見慣れぬものを見た。場違いとでも言うべきか。一人の虚無僧だった。男の背後の足もとには、薄汚れた、あまりたいした物も入っていないので、軽そうな、黒のスポーツバッグがひとつ置かれている。それと男の目の前に置かれている木の椀、これが彼の現在の所持品すべてであろう。
一心に念仏を唱えているらしいのだが、ここからではただ口をもごもごと動かしているようにしか見えない。
見慣れた光景に不意に訪れた珍客に興味を覚えた私は彼に近づいた。
木の椀には小銭が数枚入れられている。黒く汚れた足袋。深くかぶった煤けた編笠。顔はここからは見えない。風貌から察するにどこか遠いところから来て......、しかも長旅なのだろう。
エサキン
ピラニアばかりの水槽に不意に餌金魚が一匹紛れ込んだようなものだ。なにしろ、ここの連中と来たら生きている人間の頭の皮を剥がしても何とも思わないヤツらばかりだ。ここで手ぐすね引いているのは屍肉を漁って生きているハイエナばかりなのだ。
何となく興味を持った俺は足下の木の椀に百円玉を一枚入れた。
小銭を入れると虚無僧は深々と頭を下げた。そして尚一層、口を大きく動かして経を唱えるのだが、その声はまったく聞き取れない。
俺は不躾と思いながらも編笠の下から虚無僧の顔をのぞき込む衝動を押さえることができなかった。
美しい貌の青年だった。
陽に焼けた褐色の肌、黒い伏し目がちの瞳、雪を頂いてそびえる
山脈のように通った鼻筋。
この街に来てから、こんな澄んだ瞳を見たのは初めてだった。青年はにっこり俺にほほえんだ。
「どこから来たんだ」
「名古屋から」
経を唱える口を休めて青年は短く応えた。
「これからどこへ行くんだ」
「決めてません」
同じ仏の道を極めるといっても俺が学生時代一緒によく遊んだR大学の仏教学部の連中とは全然ちがう。
ヤツらときたら檀家から出ている親の仕送りで毎月、ソープに行っていたし、着るものだって尻ポケットにラメラメの刺繍の入ったジーパンを履き、首には太い金の鎖をぶらさげていた。ヤクザと間違うようななりをしたヤツも結構いた。肉や魚、酒を飲むことだって何とも思っていない連中だった。
彼の眼は俺の知っている坊主の息子とは全然違っていた。
毎日、毎日、数字、数字、ノルマ、ノルマに追われている俺。カネ万能の世の中で彼のように一途に求道に励んでいるものもいるのだ、ということを知っただけでも俺はうれしかった。
数分ほど、彼に見とれた。
「やばい。遅刻する」
ぐずぐずしていると遅刻してしまう。とんだ道草を食ったものだ。
「元気でな」
短く言い残して俺は会社へ走った。
俺は放浪の修業旅を送る若者が無性に羨ましかった。
会社に来てタイムカードを押すと二分の遅刻だった。普段なら黒字で表示される出社時間が赤字で表示されている。課長に怒られるかもしれない。
「おはようございます」
俺はおずおずとドアを開けた。朝礼の真最中だった。
「エー、そういうわけで今日も一日、グロスノルマ、新規件数ノルマ達成できるように頑張って下さい。以上です」
朝礼が終わった後、俺は課長に呼び止められた。
「何時だと思ってるんだ」
「すいません」
俺はうなだれて頭を下げた。
「まったく、新商品の新規契約、取れてないのオマエだけだぞ。仕事してんのか! 」
俺は逃げるようにして外回りに出た。
その日一日、上司から小言を喰らい、新規の契約も取れず、営業成績もさっぱりふるわなかった俺だが、なぜか清々しい気分だった。
夕刻、俺は会社に戻らず営業車で直帰した。 帰宅した俺は久しぶりに実家に電話してみた。なぜか、たまらなく家族の声が聞きたくなったのだ。そういえば、今日はおふくろの誕生日だ。これは偶然だろうか。呼出音がしばらく鳴った後、聞き覚えのある懐かしい声がした。
「もしもし」
「ああ、俺だよ」
「どうしたの。珍しい」
「ん、いや、ナニ。ちょっと声が聞きたくなったんだ。どう元気」
とりとめのない会話をしばらくした後、俺は受話器を置いた。
「誕生日おめでとう」は照れくさくて言えなかった。
明日、実家に少しカネを送ろう。学生時代、毎月仕送りしてもらった恩返しだ。何十分の一でも構わない。俺は無償に親孝行の真似事をしてみたくなった。
翌朝、出社した俺は朝礼が終わると、ホワイトボードに訪問予定先と帰社予定時間を書き込み、すぐに外回りに出かけた。営業車に乗り込んで、エンジンをかける。アクセルを踏んで道路に出た。
ハンドルを握りながら外の景色を眺めた。見慣れた光景のはずなのに映画のワンシーンのように鮮やかに見える。信号機の光でさえそうだ。青はエメラルド、黄色はトパーズ、赤はルビー、といったところだろうか。
郵便局に着いた俺はカウンターに向かった。 一万円札数枚を現金書留にする。時計を見ると午前十時だった。この時刻に出せば早ければ明日、遅くても明後日には着くだろう。
俺はその後、ホワイトボードに書かれた訪問先を数ヶ所まわり、喫茶店で遅い昼飯を食べた。
喫茶店を出ると、さらに数ヶ所、得意先をまわり会社に帰った。今日はついに新規を取れた。これで何とか課長に会わす顔ができた。
営業日報を書き、課長に提出して、
「おさき」
と小さな声でつぶやいて会社を後にした。
課長は新規の契約を取れたことをさも当然のような顔をして、
「よくやったな」
とも、
「ご苦労さん」
とも何も言わなかった。
それでも俺は別に構わなかった。あの虚無僧と出会って以来、そんな瑣末なことはどうでも良いような気がするのだ。
そろそろ帰宅時間のラッシュが始まる時間だ。数分、歩いて改札に通じるいつもの地下道を俺は歩いた。
地下道はいつもの顔ぶれだった。定間隔に並び、ティッシュやチラシを配る者たち。
俺は無意識にあの虚無僧を目で捜した。捜してどうなるものでもないが、会ってもう一度だけでも何か話してみたかったのだ。彼は昨夜、どこに泊まったのだろう。晩ごはんにありつくことができただろうか。
だが、その青年はどこにもいなかった。既にこの街を後にしたのだろうか。
昨日、青年が托鉢をしていた場所に、かわりに立っていたのは、茶髪の、目つきの悪い男だった。
その男は俺にテレクラのティッシュを何も言わずつかませた。
普段通りの殺伐とした街がそこにあった。
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